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史実の政宗と保春院の遣り取りで何が好きかって、憎み憎まれていた親子がそれを修正するところが好きなのです。
当時の親子の概念とかはさておき、やはり我々の感覚からすれば政宗は母の愛に恵まれなかった子供で、なのに結局は、親子であることに甘えずどうにか乗り越えてみせたというところがすごく嬉しい、個人的には。
親から捨てられる(殴られるでも何でもいいんですが、そういうことです)というのは子供にとって世界から見放されるより重大なことで、自分の価値はあっという間に大暴落。いい子にしてればいいことがある、明日も世界は続いていく、そういう当たり前のことが本当は当たり前じゃなくて、全ての出来事に保障も何もないということを年端もいかないうちに眼前に突きつけられることになるわけです。
絶対的な暴力(それは権威を振りかざすとかも含めて)というのは筆舌に尽くしがたいほど凄まじいもので、到底抵抗などなしえません。なのに親が嫌い、憎いと思うことも世間の風潮として許されない。大人の方はもうちょっとボキャブラリーが豊富ですから「憎くて殴っているのではない」「お前の躾だ」と言い訳をするので、それを子供は鵜呑みにしてしまう。
でも、本当は親だから愛さなくてはいけないなんて無茶苦茶な理屈で、日常的に殴ったり捨てたりなじったり犯したりする人間関係は既に破綻していて、残念ながら自分の親は親としては失格で、自分は親を恨み嫌う権利があると自覚することこそが、子供を親から自由にする第一歩だと思うのです。
すごく難しいことですけど。
なぜ難しいかと言えば、こうした自覚は「自分だって誰か(特に親)を嫌う権利があるのだ」という自信を持たなければ出来ないことで、そういう自信は本来親やそれに近しい、自分の価値を認めてくれる人によってもたらされるものだからです。こうして堂々巡りの完成です。
だから、政宗には自分に自信をつけてくれる完全な味方が必要だった、そこに弁丸がいた、それだけです。
話がそれました。
自分の価値をどん底まで落とす原因になった親を嫌うことで救われることだってあるのです。嫌うことと感謝すること、恩を返すこと、全ては別物で、政宗は、保春院を母ではなく、ただ自分を生んだ女とだけ見ることで冷静に対応できるようになったのではないかと夢を見ているのです。
むしろ、あの二人は母子の関係をばっさり捨てたから、関係を修復できた。生温かい親子の絆などあるかと鼻で笑って、それでも互いに大事に出来たらそれはすごく素敵なことだと思いませんか。私は、所詮そんなものでいいんじゃないかと思いたいし、政宗にはそう言って欲しい。
良好な親子関係など存在しないと思っているのではありません。いいことです、いいことですが、絶対ではないし、残念ながら日常的に親から酷いことをされ続けてきた人にとっては、そういう親子もいるんだなーってだけのことなんです。好きになれとかそういう無理強いは出来ません。
そんなこんなで私の政弁好きは、「母と不仲だったが結局何らかの形で表面だけでも克服」できた政宗と、「母親の影が全く見えない」弁丸という組み合わせから端を発しているのだろうなあと自己分析した結果、やはり母親というのは未だ大きな存在であるのだなあと改めて興味深く思いこうして書いた所存に御座いますれば。
別に癒されたのでも忘れたのでもふっきれたのでも許せたのでもないと思いますけどね。清々しい諦めと共に「もういいや」って二人が思えたら、いいや。結局らぶらぶオチかよ!と不快に思われたら申し訳ない。ただ、らぶらぶするには技術と自信が必要で、それを互いに与えあうことが出来れば、決して可哀想な子供たちではないかなあと思っただけです。
あ、蛇足ながら私は政宗ママ結構好きです。
おお、こんな長い言い訳に!こんなところまでお疲れ様でした。感謝。