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朝っぱらから小学生の登校風景を見て「ああ、あれが弁丸と梵天と佐吉と与六だったら!」と叫んだとうこです。最悪です。むしろ変態です。
そろそろ本格的に誤解されそうなので書いておきますが、実はリアル子供はそれほど好きではありません(笑)。むしろ苦手です。子供や小動物に優しく話しかけられない女です。
自分の子供時代なんてもうすっかり大昔の話なのですが、見ていると色々考えさせられるというか。子供が泣く瞬間の視線の彷徨い方とか感心することしきりです。このように安心できる場所を見つけるのだなあと思うと、人間大人になってもあまりそういうところは変わってない気がする…いっそ下手になっているような、いえ、でもその連続性にぞくぞくさせられるので、苦手、なのですよ。
それが妄想だとあら不思議!これらが一気に萌え要素に転換されるなんて、ファンタジーって素晴らしい!
近所の路地では子供が走り回って遊んでいるのですが(それは別に五月蝿いとも思わない変わりに可愛いとも思わないのです、怪我するなよくらいの無頓着さ)子供の語る言葉は強烈ですね。感情飽和状態の声は、昼ドラの修羅場のシーン(笑)の台詞よりもぞっとするものがあります。良くも悪くも。
子供の世界は一体どれだけ色彩豊かなのでしょうね。いえ、本当に豊かだったんでしょうか。果ての見えない場所で、鮮やかな存在だけがあるというのはどういうことか、全くもって想像がつきません。でも昔は世の中がもっと違って見えた、というのは強ち間違っていないのかもしれません。
家具の隙間や壁の模様、目を瞑ることと眠ってしまうこと、これらが怖くなくなったのは何時からなんでしょうね。それと前後して、子供は無垢で可愛らしいものという感覚を身につけていったんでしょうか。
でも子供(の形をしたもの)が大人になろうと決意する瞬間は正直ぐっときます。梵天が弁丸の為に決意するとかだったら最高です(笑)その手段が正しいにしろ間違っているにしろ。まあ、本当にそんな状況があるのか分かりませんが、小さな選択肢ならばあったのかなあと思っています。
伊達が目を切り落としたのは、その選択の一つだったと結構本気でわたしは夢を見ているのですよ。右目と母親を捨てて、自らの立場を選び取ったと考えるときゅんきゅんします。どちらも捨てられないものであればこそ、余計に。だからこの凄絶なエピソードには、狂気染みた感覚の他に、健気な、決して口に出せない憧憬のようなものを感じるのです。ああ、右目で見た最後の風景を幸村に上手く伝えられたらいいのですけど。
そんなことを考えていたら改めて伊達はかっちょいいとおもいましたよ!兼続素敵ー!なんて叫んでいますが、ね。不憫だけどそれでも格好良い伊達と、文句なしにかわゆい幸村を書いてみたいものです。えろえろしながら「幸村はかわゆいのう」とか言わせてみたいです!なんか無理そうですが。ってえろかよ!